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2006年1月 6日 (金)

【サル番長の過去帳】老人と聖

皆さんは、もしかしたらもうご存知かもしれないが、
実は、小島聖という女優は実在しない。
小島聖。それは、年寄りの歪んだ肉欲が産み出した幻。
そして、『完全なる飼育』は、その幻を気が狂うほど堪能できる作品である。

まず時代設定からして謎だ。
「こんなおんぼろアパート、今もあるんだ・・・」
男(竹中直人)の部屋に拉致された聖は言う。さて、これはいつの話なのか?
おんぼろアパートが存在しないと思われている今とは、すなわち現在であろう。
しかし、ちょっと待ってほしい。聖の役どころは、18歳高校生である。
現在の女子高生に、「おんぼろ」という語彙が果たして存在するのだろうか?

このあたりで私の脳は少なからずダメージを受けているのだが、
続いて聖から発せられる言葉に、さらに私は気絶しそうなほどの
強い衝撃を受けることになる。
男「処女だな」
聖「も、もちろん!」

処女かと問われて、もちろんと答える今どきの18歳女子高生。
待ってください。お願いだから待ってください。頭がクラクラしてきました。
現代に生きながら、旧時代の言語・思想を苦もなく使いこなす女、
さすが幻というほかありません。いや、こんな形で逃げておかないと、
もう正気を保てません。

そして、聖という幻の脇を固める人々もまた素晴らしすぎる。
特になんといってもすごいのが"パンパン"の登場である。
念を押すが、これは現代の話である。しかし、しかしだ。
焼け跡でMPを口説いてそうな服装や髪型、
アパートの陰で同じアパートに住む青年に、
やらせてやるから2万よこせと迫るその生き様、
"パンパン"としか言いようがない。百歩譲って"あばずれ"である。

この文章を読んで、筆者は作品の些細な個所の上げ足取りをしているだけではないか、
と思う方もいるかもしれない。しかし、それはまったくの誤解である。
私が主張したいのは、つまりこういうことだ。
新藤兼人という人物の輝かしいキャリアにケチをつけるつもりは更々ない。
が、そのキャリアと、今現在の新藤兼人がどうであるかという話は
全く別問題である。
かつて、私はとある映像製作者セミナーに参加したことがある。
そのときのゲストが、新藤兼人であった。
彼は、創作の際に客観性をいかにして保ったらよいかという出席者の質問に対して、
主観を極めればそれが客観になる、と回答した。
たしかに、ある時期の新藤は主観を極めることで客観に行き着くという
ある種の神技を発揮していた。ただし、これは創作者自身の持つ、
現代を感じ取るアンテナが正しく機能している場合に限られる。
残念ながら、現在の新藤アンテナは故障しているのだ。
いや、故障という表現は遠慮しすぎている。
もう寿命なのだ。オシャカなのだ。なーんにも受信してないのだ。
さて、そのような状態で主観を極めていくと、どのようなことがおきるか。
結果として、作品上に現実とはかけ離れた幻が発生するのである。
もう一回言おう。小島聖という女優は実在しない。
あれは、年寄りの歪んだ肉欲が産み出した幻である。
同様にして、『あつもの』(監督脚本・池端俊策)に登場する小島聖もまた、
幻である。女の幻、おっぱいの幻・・・。

ところで、このような幻が発生したとき、
もしもし新藤さん、これって幻ですよ、と言ってあげる人は
彼のそばには誰もいないのか。
今どきもちろん処女です、と言ってのける女子高生など存在しないことなど、
新藤兼人以外はみんな知ってるだろうに。
言っても聞かないのか。聞かなそうだ。
ダメだこりゃ。

【そして・・・】
その後も、映画・テレビの世界に数々の幻が現れ、消えてゆきました。
小島聖は、『恋の門』で久しぶりにお見かけしました。
変なキャラですが、実在していました。

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